匠たちのリレーコラム #3

「作る心、使う心」 大竹収

   

 息子は一時期、フィギュア作りに凝っていた。ジャンルは美少女フィギュア。粘土で原型を作り、シリコン樹脂で型を取り、ウレタン樹脂を流し込んでパーツを作る。それを組み立て、彩色を施して出来上がりとなる。

 

 フィギュア・マニアの大会が、年に何回か開催される。一日限りの来場者が数万人という、門外漢には想像もできない規模のイベントである。そこには、プロからアマまで、多数のフィギュア作家が作品を持ち込み、販売をする。息子もそのようなイベントに、何度か出品したことがある。

 

 あるイベントでのこと。たまたま息子は用事でブースを離れ、同行した友人が店番をしていた。一人の外国人が立ち止り、展示品に目を止めた。熱心に見るので、興味を抱いたらしい。そしてこう言ったとか、「この作品が気に入った。どんな人が作ったのか知りたい。製作者と会いたい」

 

 一般の来場者は、ほとんどがブースの前を通り過ぎるだけ。まれに立ち寄る人がいても、作品を見るだけで無言。さらにまれに、買ってくれる人がいても、お金を差し出すだけ。作家どうしは、けっこう交流があるそうだが、一般の人は、作品の向こうにあるものに関心が無い。

 

 その外国人がどのような気持ちだったのかは、分からない。想像だが、作品のみならず、創作全体に関心を持ち、したがってその生みの親たる製作者と会いたいと思ったのだろう。

作品は目の前の現物しかないが、作者は創造の源そのものである。

 

 一般的に日本人は、作品や仕事というもの、つまり結果として有るものと、それを生み出した作者、あるいは過程といった上流にあるものを、切り離して見る傾向があるように思う。極端に言えば、作品を素晴らしいと感じても、その作者はどうでもよい。誰がどのような動機で作ったかは関係ない。品物を見て気に入れば、それだけでよい。むしろ、その背景には、タッチしない方が良い、といった感じか。

 

 無名の作家が作ったモノ、または無口な職人が作ったモノでも、品物が良ければそれでOKという傾向があると思う。逆に、無名性の方に価値を置く風潮もある。その割には、有名な作家の作品は、品質にかかわらずもてはやされるという傾向もあるが。

 

 品物には、必ず作った人がいる。小さくて安価な品物、たとえば輪ゴムや画鋲だって、人が作っているのだ。機械化された工場で製作されてはいても、機械がゼロから作り出す事はありえない。人の判断や思いや工夫や努力があって初めて生み出されるものだと言える。

 

 品物は人が作り出す。だから、気に入った品物を愛して使うということは、それを作った人に思いを寄せることにつながる。モノを愛するなどというと、物欲の現れのようで、人間らしさから離れていくように感じがちだが、そうではない。モノを愛するという事は、それを作り出した人を愛するという事だ。逆にモノを粗末にするという事は、人を軽んじるということだと言える。

 

 現代は、激安ショップや価格破壊などが一般的になり、金銭的な面だけがクローズアップされがちだ。それだけで良いのかと思う。我が国は、モノ作り大国などといわれてきたが、モノ作りの大元である人を大切にしなければ、本末転倒だと思う。優れたモノを生み出す社会は、人を愛しむ社会であり、人と人との良好な関係によって、良い品物が生まれるのだ。

 

 画鋲でも輪ゴムでも、きちんと作られたモノは、使っていて気持ちが良い。それに引き替え、一見便利な家電製品でも、その設計思想に首をかしげたくなるような物もある。能率効率と金銭感覚ばかりを優先した商品は、殺伐として味気無い。生活の中で使う道具は、できれば製作者の思いが込められたモノを、愛情を持って使いたいものである。

 

 工場で量産される製品でさえ、品物には生産に携わった人の心が宿る。ましてや、製作者の顔が見える品物には、その人柄さえ現れる。かく言う私も、作家から購入した陶器、ガラス、木の器や道具を日常的に使っている。使うたびに、作った人の面影が目に浮かぶ。そして、かの人は、今でも元気に製作を続けているのだろう、などと思いをはせる。それは、道具を使う楽しさを倍増させる。そして作った人の思い出は、作品を安心して使う拠り所となり、その品質を保証する証しともなるのだ。

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