匠たちのリレーコラム #5

「これからもよろしく!!」 前田純一

 

桑物師前田南斎(本名兼吉 1880年生れ ・伊豆稲取出身)は下田での修行を終えて21歳のとき上京し、その後を継いだ前田保三(本名 1910年生れ)は質実剛健で洗練された江戸指物を確立しました。

僕は保三の長男として戦後の東京駅近くで1948年に生まれましたが、中学生の頃まではあたりに材木屋や刃物屋がめずらしくなく、町内にも手仕事で生計をたてる職人が何人もいた時代です。

高校卒業後は当時創立されたデザインスクールで工業デザインを学び千葉のオフイス家具の製造会社の設計部に就職しました。

日本経済が急成長し、機械が仕事をする時代が幕を開けて工場はオートメーション化へ向かい、その後東京新橋に製品企画室が作られたのでデザイン学校の後輩二人に来てもらい、僕は責任者として無彩色のオフィスを明るいイメージに替えようとか、課長以上のデスクの天版は木目調デコラにしようなどといった仕事をしていました。

首都圏の企業が工場を地方に移す時代で、働いていた会社も東北に新工場をつくって製品企画室を移動することになり、それを機に僕は会社を辞め父について修行を始めました。

父母と離れて暮らすことがいやでしたし、捨てては新しいデザインを起こし、また捨てて収益をあげることに疲れはじめていて、大変でも父の手が生みだす時間を越えた美しい仕事をひき継ぐ意思はすでに固まっていたのです。

それは故郷がビル街になリ、父が僕たちを連れて鎌倉へ引っ越した後のことで、以来20年僕は父について伝統工芸展に出品したり藤沢に出来た東急ハンズ1号店が面白くてそこで講師をしたりしていましたが、そのころから手工具だけで細工したり作品を鉄道で運ぶような時代ではなくなり、やがて端材を燃す煙や、機械の騒音がご近所に迷惑をかけるように鎌倉は変わっていきました。

母が若くして亡くなり、愛妻家の父も寂しさを紛らせながら仕事を伝えつつ他界したので、僕は鎌倉を引き払い縁のない松本三城に移住して山暮らしを始めました。

とりたてて英断したというようなことではなく、自然のなかで家族となかよく暮らしながら創作活動を続けたいといった思いが背中を押しただけのことでしたが当時僕は36歳、長女と大作が小学5年と3年生、家族に引っ越すと宣言したところで、住む家は秀男(鎌倉から一緒にきた弟子)と二人で移住してから設計して建て始めたという状態でした。

それから30年、開墾しては壊し作っては壊しながら自然の原理に怒られて教えられて創作に明け暮れてきましたが、子供たちが自立してくれると、崖から落ちなくてよかった、樹や石の下敷きにならなくて幸運だったとこのごろようやく胸をなでおろします。

伝統や家系や経歴はありがたく、同時に僕たちの自由を奪いかねない厄介な存在で、人は自然に逆らえず、文明は脆弱で人間は傲慢だということ、樹木は代償を求めず、廻りすべてに公平に体を差し出してくれていることなどは山暮らしで体得したことですが、木の匠たちの仲間に入れていただいているのもこのような経緯で松本に暮らすお陰です。

30年を期にふたたびリセットしたい心境ですが、みなさまこれからもどうぞよろしくお付き合いをおねがいします